bms的人生について
当日記をbms日記にする積もりは無かったのだが、私の人生において、bmsと私は切っても切れぬ関係にあるようなので書いておく。
私は現在bmsを引退した、と断言はしないが、bmsは二年近くやっておらず、ゲーセンにも行っていない。前作NOPLAYでACのデータは消滅した。
過去のエア引退は例外無く撤回してきたが、bmsは熟達を続けることに意味があるのであって、熟達に必要な時間を取れない今、bmsを再開する意味は無い。また、仮に職を辞して復活したところで、全盛期を超えることは不可能に近い。
私が言いたいのは、bmsをやることだけがbmsではない、ということである。
bmsの本質は熟達にある。bms以外でも熟達は得られるが、私にとっては、熟達を得るのに最も適した形式がbmsであった。
私が思うに、人生を続ける上で最も必要なものは熟達である。また、その形式は様々であって、その手段は必ずしもbmsである必要は無い。
そして、今の私にとっては、仕事が嘗てのbmsの役割を果たしている。私の仕事は多分に熟達の要素を備えており、往時のbmsのように上を目指すことを楽しんでいる。私にとって、bmsは現状役目を終えているのである。
これからbmsを始める若者へ言いたいことは、私のようなbmsと心中する生き方を勧めはしないが、その覚悟を持っているのであれば悪い結果にはならないと思うし、その後の人生も何とかなるものである。
bmsの熟達を得られた者は、他の何をやっても上手く行く、という信念を持てるのであれば、bmsにどれだけの時間を捧げようとも決して無駄にはならないし、その経験は必ず人生のどこかで役に立つ。
bmsを中途半端に挫折して終えるぐらいならば、破滅覚悟で行ける所まで行ってみるのも面白い。少なくとも、私はbmsによって救われたことで今を生きているし、bmsが無ければ恐らく死んでいたと思う。
このような、誰にも理解されぬ生き方というものも、案外悪くないものである。