あれからの日乗

(2) コミュ障の生き残り戦略

一見すると支離滅裂な当ウェブ日記の目的は、人生を考えることにある。

私は旧日記の頃からbmsを単なるゲームの枠組みとしては捉えていなかった。bms、語学、仕事、恋愛、全ては人生に通ずるものであると考えている。

コミュ障と内向型人間

コミュ障のことをコミュニケーション障碍である、と言い切ることは簡単だが、少し違った見方をしておきたい。

Quiet(内向型人間の時代)に拠れば、外向型人間(extrovert)が、人との関わりを好む反面、内向型人間(introvert)は、コミュニケーションは問題無く取れるが、あまり人との関わりを望まず、少人数で居ることを好む。

私が思うに、コミュ障とは、内向型人間がコミュニケーションを放棄した成れの果てである。

内向型人間、外向型人間にはそれぞれの生き方があり、どちらが良い悪いという類のものではない。

コミュ障だからといって、そう人生に悲観的になることもないのではと私は思う。そこで、その代表者たる私から、前向きな生き方を提示したい。

コミュ障の問題

この世はコミュ障にとって生き辛くできており、主に三つの問題を引き起こす。

交友。友人が非常に少なくなる。居るならまだ良いが、私はbmsをやっている間は人生を半分降りており、長い間友人が一人も居なかった。当時の私にはbmsさえあれば事足りた。

仕事。人と関わらない仕事はほぼ無く、一人でできる仕事は非常に限られる。

恋愛。コミュ障の女は可愛ければ一定の需要があるが、コミュ障の男は全く需要がないのが現実である。

この三点を放棄して生き続ける覚悟があるのであれば、コミュ障であっても何ら問題無い。

私が人生を半分降りていた間は、ひたすらbmsと向き合うだけの充実した日々を送り続けることができたから、そう悪いものではなかった。

しかし、今思えば、私に最も欠けていた物は、人生を限界まで棒に振る覚悟だった。

内向型人間を目指す

そのような生き方をしたくない、或いはその状態から抜け出たいのであれば、自分を変える必要がある。

一つ言えることは、コミュ障は無理に外向型人間を目指すのではなく、内向型人間を目指した方が良い。

コミュ障とは練習不足

コミュ障がなぜコミュ障たり得るかというと、コミュニケーションを放棄することで、練習の機会を自ら失い続けるからである。

つまり、練習する環境もなければ、練習も行っていない状態である。

例えば、コミュ障のために就職を諦めている人には、強制力のある環境に自らを置いて練習を行うことを勧める。

そうした環境を簡単に用意する方法は、練習に適したアルバイトをすることである。

私はやったことがないが、恐らくゲーセンやコンビニなどはそうした練習には向いていないと思われる。

私の経験で言えば、書店は人と話す機会が多く、割と練習になるし、何より良い本に出会える。私の人生に影響を与えた本の大半はここで出会っている。内向型人間にはお勧めの環境である。

より良い環境で正しい練習を継続していれば、コミュニケーションの地力は確実に伸びる。

どうせどれも時給は安いのだから、アルバイトは楽なものよりも練習になるものを選ぶという考えを持つことを勧める。

人生を降りる

それすら無理と言うならば、就職せず、人生を降り、誰とも関わらずに生きる路線を模索するしかない。

フリーター

最初は新卒と大差ない給料だが、長く続けるほど差が拡大してゆく。福利厚生が無いことに耐えられるなら有りだが、最終的には野垂れ死ぬ覚悟が必要。

資産運用

元手が少ない状態だとただの博打である。

背取り

私は古本転売は得意だが、結局店舗を足で回る肉体労働なのでお勧めしない。

貿易

ある程度の元手があれば現実的な選択肢ではある。

その他

賭博、アフィリエイトYoutube等については知らない。

就職する路線

福利厚生諸々のことを考えると、就職した方が楽に生きられると思われる。

公務員

筆記試験は難しくないが、新卒至上主義、テンプレート面接重視なので、はなから私には向いていなかった。

IT

学部学科も全く関係無く、文系だろうと入れる。

コミュ力の低さを技術力で補えるのが強みであるが、勉強好きでないと生き残れない。内向的人間に向いている職種である。

ただし闇が深い業界なので、人売り会社に入らないように注意。その辺は書くと長くなるので割愛する。

また、IT業界のフリーランスの八割は客先常駐フリーランス(要するに、中抜きの無い派遣)であるため、コミュ障向けではない。

新卒至上主義

そんなに新卒という身分が大事なことかと思う。特に留年してまで新卒ステータスを維持する人間の気持ちは全く分からない。

一方で彼らにも、院試の最中にゲーセンに行く人間の気持ちは理解できまい。

既卒後何年経とうと(限度はあるが)、それに見合った能力を持っている限りはどこかで必要とされるはずであり、あまり気にしなくて良いと思う。

コミュ障の面接

そもそも人生において面接なぞする機会は滅多に無いのだから、練習するしかない。

コミュ障だから面接ができないというよりは、単に練習不足だからできないと考えるのが正しい。

環境は一人カラオケが最適である。用意した原稿を淀みなく暗誦できるように、ひたすら反復練習するというのが私の練習方法だった。

私は興味を持てない事物に対しては非常に要領が悪いため、たった数分の原稿を覚えるのに、数十時間カラオケに籠もっていた。普通に歌ってもいたが。

人生の正規化

なぜ恋愛の話をするのにこのようなことを書かねばならないのかというと、コミュ障という練習不足の状態からの脱却、さらに前にも述べたように、まともに生きるには非正規ではなく、正規(雇用)でなければならないという意味において、この「正規化」の作業は必須だからである。

学生という特権を持った身分である間は、このようなことを考える必要は無いが、いずれにせよこれは避けては通れぬ問題であるし、私のようになりたくないのであれば、あまり避け続けないことである。