あれからの日乗

七、不能

駄目なときは、駄目の流れに流されるより他はない。その方が、浮かぶ瀬にも辿りつきやすいものだ。(西村賢太「一私小説書きの日乗」)

一年の後、彼は発狂十段を得た。その辺りから、彼の上達は止まり、bms慾は減退を始めた。往時の十段と皆伝の差はあまりに大きく、どうすれば良いか全く分からなかったのである。

ここで彼は一度「エア引退」することを決意した。ゲーマーの引退宣言は信用に値せず、根が意志薄弱にできてる彼の宣言ならば尚更である。そのため、自らの引退宣言を自嘲してそう呼んだ。

一方で俄に古本屋のアルバイト慾が高まりを見せた。彼はこのアルバイトに一種のゲーム性を見出した。

ゲームが持つべき要件は、

  1. 練習可能な環境を持つ
  2. 上達法が確立している
  3. 成長を得られる

以上の三点である。

詰まり、このアルバイトは本の名称と相場を詰め込むことで強くなるゲームである。

暇を持て余した彼は毎日ひたすら本の知識を詰め込んだ。すると途端に頭角を現し、店内で最も本の相場を知る人間になった。
彼は一目置かれるようになり、大口の買取も任されるようになった。

とは言え、仕事ができたところで時給は千円据え置きである。それでも彼は自らの虚栄心を満たす為だけに、本の相場を覚え続けた。

背取り、という商売がある。古くは神保町等の古書肆に出向き、相場より安い本を購め、高値で転売する行為を指す。
昔の時代であれば、これ一本で生計を立てることも不可能ではなかった。

彼もまた、背取りで若干の小銭を得ることはできたものの、古本屋巡り、出品、梱包発送と云う単純な肉体労働が合わぬと感じ、直ぐに止めてしまった。

年末の、企業が年始休みに入り始める辺りが古本屋の繁忙期のピークである。
朝から晩まで人間のウェーブを捌き続けるうちに、本の詰まった箱が天井まで積み上がってゆく。

年末の勤務を終えた後、店長の山本が、

「お疲れ様。これ、ボーナス」

と彼に封筒を手渡した。アルバイトにボーナスなぞあるのか、と思い中を見ると、五千円札一枚が入っていた。

ボーナスを貰ったことのない彼ですら、このお年玉程度の寸志が、明らかに労働量に見合った対価ではないと云うことは察した。

彼はいつかはこのアルバイトを辞めねばならぬ、と思った。

しかし大学を卒えただけの、何んの能力も持たぬ、コミュニケーション障害者の彼を採ってくれる企業なぞある筈もない。

結句、社会不適合者の彼はこの時給千円の生活を続けるより他は無いのだ。