あれからの日乗

五、一日

大丈夫だ、まだ、大丈夫なはずだ――。​(西村賢太羅針盤は壊れても」)

彼の一日は、便所掃除から始まる。
クリーナーを半分に千切り、便座の隅々まで拭き取った後に紙片を捨てる。

モップ掃除と窓拭きを済ませ、新人の彼がか細い声で挨拶を終えると、水沢と云う女から書棚の配置の案内を受けた。
店はワンフロアしか無いものの、漫画と専門書と技術書ぐらいしか知らぬ彼には難儀だった。

書棚の説明を一通り受けると、レジスターの操作方法を学んだ。

彼は人生でレジスターと云う物に触れた験が無かった。
暗号めいた品番と金額を手打ちで入力する必要があるのだが、説明を受けても何を言っているのかまるで分からない。
そうこうしているうちに客が来て、入力方法が分からず彼が慌てているうちに、客の女は金だけ置いて帰ってしまった。

「まあ、長嶋も初戦は三振だからな」

野球好きの店長の山本が場を和ませた。しかし彼にはこの機械を扱えるようになる気がしなかった。

昼休憩の時間になると、半分ずつ一時間ずらして休憩に入ることでシフトを回す。
後休憩の彼が棚出しをしているとバックヤードの方から、
「あいつT大だってさ」
「T大が何しに来たんだ」
なぞ言う声が漏れ聞こえて来る。

やはり自分の居場所はどこにも無いのだな、と彼は思った。
しかし別に良いのである。彼にとって最も必要なのはbmsの時間であり、それを捻出する為ならどんな苦難にも耐えられると思った。
バイト連中との人間関係なぞ、彼にとってはどうでも良いのである。

彼は大学時代にコンピュータサークルに属していた。
根が同類嫌いにできているため、深くは関わらなかったが、サークル内では多少の親交はあった。
夏頃にサークルの上級生のTとAが立て続けに首を吊った。
少し前まで普通に話していた人が、彼の知る由もない苦悩を抱え死を選んだということに驚くも、悲しみはなく、寧ろ彼らを羨ましくさえ思った。
生き長らえることよりも死によって得られる効用が上回ったのであれば、それも悪くない選択だと思った。

彼は昔から自分が何の為に生きているのか分からなかった。
余計な柵から解放された今、彼は社会的に死ぬことにした。
親類とは連絡を断ち、実家の友人には死んだと言ってくれと伝えた。人生を半分降りた隠遁者としての余生を求めた。
自死よりも簡単で、合法的な死に方である。本当に死ぬのはどうしようもなくなってからで良い。そう思うと気が楽になった。幸い時間は山ほどある。

定時でバイトを上がると、そこからはbmsの時間である。bmsだけが彼の唯一の支えだった。
とは言え、彼はまだ発狂三段である。bmsに出会って十年経ってそこまでしか行けなかった人間に未来があるとも思えないが、兎に角も今はこれに縋るしかないのだ。