あれからの日乗

四、人生を半分降りる

「貫多の持病は、所詮、一生治る見込みの望めぬ廃疾のようなものであるらしい。」(西村賢太「廃疾かかえて」)

いったいにコミュ障と云うものは生き辛く、発達障害を抱えているのであれば尚更である。彼は物心付いた時点で既に落伍者の烙印を押されていたも同然であった。

彼は大学に入った時点で、自らが将来就職する未来を想像することができなかった。一体自分が人生で何を成し遂げたいかも分からぬし、企業で定年まで働けるとも思わない。願わくば明治の文豪のような高等遊民になれる未来を望んだ。

無職になった途端、清々しい気持ちになった。全てを諦めることで、あらゆる人生の労苦から逃れられる。これほど楽な生き方は無いと思った。この時点で或る意味で彼の希望は達成された。

しかし糊口を凌がねば飢えるのであって、そうも長い間無職であり続けるわけにもゆかぬ。

彼はバイトらしいバイトをした験が無かった。学内で情報基盤センターのパソコン相談員なぞ云うバイトをしていた。

PCの前に座ってQMAの問題をひたすら解き続け、一時間に一度程度来るかどうかの情弱の相手をするだけで、時給千五百円貰える割の良すぎる仕事とも言えぬバイトであり、学生の頃はそれでゲーセン代を捻出していたものであった。

他にも、駿台で出来の悪い糞ガキに時給二千円也で個別指導なぞやっていた。コミュ障の彼も、糞ガキ相手の1対1であれば普通にコミュニケーションを取れていた。しかし、糞ガキの物覚えの悪さには苛立ちを覚えたし、準備の時間も入れると結句時間効率はかなり下がるため、割の良いバイトではなかった。

彼はbmsに注力すべく、徒歩数分圏内のバイトを求めた。近所のゲーセンの掲示に目を付けていたものの、これは彼が申し込む前にあっさり埋まってしまった。

仕方無く近所の古本屋に応募した。時給千円だが楽そうではある。bmsに注力するには丁度良い。

面接では彼は奇人扱いされた。就職までの繋ぎ、なぞ適当な事を言ったが、彼に就職の意思は無かった。早稲田を出ていた店長は彼の事を気に入ったようで、面白い奴だから採る、と言われた彼は採用と相成った。

かくしてT大を卒えた彼の時給千円のアルバイト生活が始まった。