あれからの日乗

三、廃疾かかえて

しかしそれにしても、こんなふやけた、生活とも云えぬような自分の生活は、一体いつまで続くのであろうか。こんなやたけたな、余りにも無為無策なままの流儀は、一体いつまで通用するものであろうか。(西村賢太苦役列車」)

T大に入るまでは、そのことによって自らの何かが変わることを期待していた。
それだけが彼にとっての蜘蛛の糸であり、それに縋るしかなかった。

大学に入れば人並みに大学デビューなぞできると期待をしてみても、スクールカースト最下層の生活の末に、コミュ障キモオタメンヘラ気質の三重苦が染み付いた彼には、到底人並みの大学生活なぞ送れるはずもなかったのだ。

さらに彼にとっていけなかったのは、大学の授業に一切のゲーム性を感じなかったことである。受験という神ゲーに比して、何一つ面白くないのである。彼は途端に勉強に飽きてしまった。

そこで彼は昔やっていた音ゲーの存在を思い出した。田舎には全く無かったゲーセンが至る所にあるし、たまたま専コンの再販のタイミングと重なったのも良かった。

ゲーセンでいくらIIDXをやっても上達しなかったが、発狂bmsを始めると途端に上達するようになった。何一つ楽しくない大学生活において、bmsの上達だけが彼の生きがいだった。

彼は人前で話すということが人一倍苦手だった。小学校の一分間スピーチでは突然泣き出してしまうし、発表では赤くなって俯いてしまうほどである。

そのため発表が必要な授業は一切取らないようにしたが、卒論だけはどうしようもないので、卒論が要らないと云う理由だけで、全く興味の無いマイナー学科を選んだ。

単位だけは一夜漬けで取り続けてはいたものの、院に行く気は全く起きず、さらに院試中のTOEFLがあまりにも何を言っているのか分からなかったため、途中で帰ってゲーセンに行った。

もちろんそんな重度のコミュ障の彼が就職の面接なぞ通るはずもなく、落伍者の烙印を押され、かくして彼はT大を卒えて無職になった。

後はこのまま藤澤清造に倣って公園のベンチで凍え死ぬのも良いと思ったが、幸い彼にはbmsを続けるという人生の目的が残っていた。自身の進退については、bmsで行けるところまで行ってから考えることにした。